私は一九七一年六月に写真家として独立したので、今年(二〇二三年)で五十二年経ちました。デビュー当時から現在まで変わらず意識しているのは、過去に良い写真とされてきた「決定的瞬間」にとらわれず「自由」に写真を表現しているかです。
三十年ほど前から滝のある風景に興味を持ち全国撮り歩いていましたが、そのうちに落下する水の様態を写真で掴まえたいと思い、超望遠レンズを使用して滝を部分に分割して撮るようになりました。
水は生きるために必要とする根源的な物質ですが、定まった形がありません。まるで魂あるものの如く、時々の条件で変容していきます。言ってみれば正体不明の存在に興味を惹かれるようになったのです。
「写真」はすべての条件が作家の思いどおりになるわけではなく、内面を表現するにはとても不自由な媒体です。その不自由さが時には力になります。水の様態を撮るために撮影を重ねるうち、偶然にも肉眼で確認出来ないものが写ることに気づき、それが水の動くエネルギーに由来すると実感するようになりました。
今回展示した作品は、現実に存在する富士山の伏流水です。水の持つ神秘性に注目し、予想を超えた「偶然」に期待しながら撮影した作品です。現実に目を向けているにも関わらず、結果的に抽象性の強い作品になりましたが、セレクトする際には、理念よりも本能に、あるいは自身の記憶に紐付けて写真を選びました。
十文字美信