残闕

 二〇〇五年十二月、姫路にある書写山圓教寺の秘仏本尊を撮影させていただくことになり、その縁で当時、早稲田大学講師で仏像修復家の櫻庭裕介氏をご紹介いただいた。また前後して鎌倉在住の彫刻家であり仏像修復家の瀧本光國氏とも知遇を得た。お二人にお願いして、修理のために解体した仏像を撮影させていただく機会を得た。

 実際に解体された像を目の当たりにすると、完全なる姿形の仏像とは別種の、今までとは異なった実存感に思えた。頭や胴体、腕や足、場合によっては指一本の時もあった。仏像として完結するはずが、バラバラに切り離されてしまった腕や足はもはや仏像とは言えない。では像の部分かというと、部分でも断片でもない。全体を構成する一部でなく、もしかしたら腕は自分を腕とも思っていないのではないか、と感じてしまう強いインパクトがあった。
 解体された仏像の部位それぞれから発している印象は、深く静かで周囲を沈黙させてしまうほどの厳粛さがあった。うっすらと埃を被っているにもかかわらず、輝いているようにも見え、見続けていると目眩く思いの中で不思議な安心感すら覚える。
 数百年間の人の想いや経過した時聞を私が想像するからだろうか。
 腕や足、一つ一つの表面を見つめているだけで、何も言うことはない、完壁だと思ってしまう。

 目の前の其処に在る腕には、ただ腕としてのサスペンスだけが漂っている。
 私に出来るととは見えているそのままを写真に撮ることなのだと思う。(『常ならむ』より)

会期:2017年4月28日(木)〜 6月26日(月)
十文字美信 写真『常ならむ』ワーキングプリント展

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